today’sbooks’s diary

出会った本のことなど

境界性パーソナリティ障害を知恵と工夫でなんとかする試み

境界性パーソナリティー障害なのかな、と最近思った。

置き去りにされる恐怖のために、いろいろな人との関係を悪くしてきた。

年を重ねるにつれて、最初から「この人は結局私を切り捨てるだろう」と保険をかけてつきあうようなことも多かった。それでも内心では、見捨てられる恐怖でビクビクしていた。

境界性パーソナリティ障害を改善するには、「世界観」を変えていくこと、そしてマインドフルネスがいいようだ。

そんなわけで、遅ればせながら小さな試みをいくつか始めた。

まず、何かに没頭する時間をもつこと。クロスワード、数独などのパズル。チェスの問題。鉛筆デッサンは、以前単発の講習会に参加したので、道具(といっても、鉛筆と練り消しゴム、スケッチブック程度)が手元にあった。

いずれも15分程度だけれど、その間はいやなことを考えずにすむ。

一日に何回か、没頭する時間をもつことで、以前ほどつらいことを思い出さなくなったし、思い出しても苦しみの度合いは軽くなったように感じる。

今日のデッサン。美大を受けるわけではないので、ヘタでOK。

植木鉢の雑草観察も、のんびり続ける。

7月の終わりには、荒涼としていた植木鉢。2週間あまりで、かなり草が生えてきた。

これは、もともと種がたくさん土の中にあって、それが水を吸って発芽したのか。

または、鳥や風で種が運ばれたか。(鳥はあまり来ないと思う)

あまりにも同時多発的なので、土の中ですべての根がつながっているのかと思いたくなる。

 

7月の終わり頃。

8月半ば。

 

森鷗外と自然観察

森鷗外に『妄想』という短編がある。

鷗外が50歳のときに発表したもので、完全に自伝とも言えないが、自らの心について語っている。

ドイツ留学中に彼はこんなことを考えた。(表記は少し変えてあります)

「生まれてから今日まで、自分は何をしているか。始終何物かにむちうたれ駆られているように学問ということにあくせくしている。これは自分に或る働きができるように、自分を仕上げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかもしれない。しかし自分のしていることは、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。むちうたれ駆られてばかりいるために、その何物かが醒覚する暇がないように感ぜられる。勉強する子どもから、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、みなその役である。」

「夜寝られないとき、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終わるのかと思うことがある。」

そして彼は、宗教や哲学の本を読みあさる。なるほどと思うものもあったが、心の底から納得できる考え方には出会わなかった。

そんな中、中年を過ぎた彼は、ルーペ、顕微鏡、望遠鏡で、草花や微生物、星などを観察することに心の安らぎを見つける。

 

人間の理屈や社会のシステムに窮屈さを感じたときに、自然は違った視点を与えてくれる。川べりや森の中をただ歩くのもいいけれど、もう少し距離を縮めて、観察してみると、より面白い発見があるにちがいない。

先日YouTubeで、精神科医の斎藤環さんが、ひきこもりから脱するのに家庭菜園や釣りがよい、と語っていらしたけれども、これも自然へのコミットメントと言えるかもしれない。

 

近くに楽しめる自然もないけれど、ベランダの植木鉢の雑草を観察するようになった。

街を歩くときも、少しだけ、道端の植物を見るようになった。

ずっと感じてきた「生きていることの窮屈さ」が、わずかでも和らげばと思って。

 

写真は先日出会った路上の花。

名前は画像検索で調べましたが、必ずしも正確でないかもしれません。

 

イヌホオズキ? ワルナスビ?

 

ランタナ? 近くで見ると、とてもかわいらしい。

 

『雑草はなぜそこに生えているのか』稲垣栄洋著 ちくまプリマー新書

古書店で出会って購入。

科学本は、いつもと違った視点から考えることに気づかせてもらえるので、難しすぎないものが見つかると読むことにしている。

雑草は、私たちが思っているような強い植物ではなく、弱いから雑草になったということ、また雑草は人間がいるからこそ存在しているということなど、たいへん勉強になった。

種を残すという目的のために、試行錯誤を続けながら生きていく。目的をけっして見失わないのは、多くの生き物も同様だろうが、肝心の人間が生きる意味がわからなくなっている。

自分はいま何をすべきかを知ることの大切さを、雑草の話から学べたのはおもしろい。

また、除草剤の仕組みも、初めて知ることができた。

 

 

『シティ・オヴ・グラス』

『シティ・オヴ・グラス』角川文庫

ポール・オースターの「ニューヨーク3部作」の第一作。

主人公の、あまり売れない作家クィンは、間違い電話がきっかけで一人の老人の尾行を始めるが…。

物語のはじめには、孤独ながらもまだ世の中とのつながりをもっていた主人公が、探偵のまねごと、というか、老人の尾行を続けるうちに、人々で賑わうニューヨークの中で次第に孤立していく。

探偵小説のようでありながら、事件がおこったかどうかもさだかではない。

なぜか作中に登場する作家のポール・オースター氏の自宅を訪ねる場面が、ターニングポイントかな、と感じた。

かつてクィンが手にしていた幸せを、もっとすばらしい形で当たり前のように享受しているオースター氏。これを目にした瞬間から、クィンは次第に「正気」を失い、転落していく。

誰かとほんとうのつながりを持っていないと、人はいとも簡単に消失してしまう。

けれども、誰かとほんとうにつながりを持てている人間がどれだけいるのか。私たちの多くが、ちょっとした行き違いから、存在しないことになってしまうのではないか。孤立氏や孤独死について考えさせられる。

けれども、クィンが陥ったホームレスのような生活が、彼にとって完全に不幸であったというふうには描かれていない。路地の奥のゴミ入れと壁に挟まれた場所から空を見上げて、それまで気づかなかった色の変化や美しさを発見する場面が印象的。

オースター氏が、クィンに対して冷淡で、性格の悪い人物みたいな形で物語が終わるところが、ちょっと面白い。

そんなに性格悪いとは思わなかったが。

 



『岸田劉生随筆集』

画家、彫刻家、音楽家など、芸術家の書く文章は、面白いことが多いです。

岸田劉生は愛娘の肖像である「麗子像」で知られていますが、38年の生涯の中で多くの文章も残しています。

当時日本に来たゴッホの「ひまわり」を見て、芸術としてはかなり優れているけれども、興奮が芸術化されずに生のままになっている、と評した劉生。こんにち何十億円もの値段がついているゴッホの絵画を、私は劉生のように冷静な目で先入観なしに見ることができるだろうか、と感じます。

「…影の多いということは、それだけ「質の美観」をかくしてしまう……。影の多い描写は多く通俗になる。レムブラントの画の一味の通俗味と写生の不緊密から生じる描写の「甘さ」は、此処から生じている」

「……写実を離れた、芸術の美の主体はともすると独り合点に陥りやすい」

こういった劉生の発言か100%正しいかどうかはわかりませんが、私には納得できるところがあります。

また、近代建築が建築家個人の思想の表現になっていて、そこには「美はなく「考えばかり」があります」という一節も、心に残りました。

日本の妖怪についての考察も、大変興味深く読みました。

 

『いま生きているという冒険』

石川直樹著 理論社 2006年4月刊

古書店で500円で購入。

現在も次から次へと冒険を続け、素晴らしい写真や文章を発表している著者が、高校生でインドを一人旅して以来、10年の旅の軌跡をつづったもの。インド、アラスカ、北極から北米・中南米をへて南極、チョモランマ、ミクロネシア、熱気球太平洋横断。旅で遭遇する想像を絶する状況には驚くばかりですが、先入観を持たずいつも素直に世界と対峙する著者の姿勢に感銘を受けました。印象に残った一節を引用します。

「…ただひたすら歩き続けるという行為は、もしかしたら人間にとって大きな幸せなのではないかと思うようになりました。」

「もし地図やコンパスをたよりに航海している人が、それらを一切なくしてしまったら、途方に暮れてしまうでしょう。しかし機械や装備に寄りかからず、そういったすべての要素を知恵に置き換えることができるとしたら、その人は身体一つで歩き続けることができます。それは人間に祖阿割っている野生の力を最大限に引き出した、もっともシンプルで強い生き方につながっています。」

文明が発展した現代の私たちは、自分たちが昔の人に比べてすぐれた知力を持っている、と思い込んでいるかもしれませんが、実際は文字を使い始めたことで人の知力は後退し始めたのだ、という話を聞いたことがあります。

無文字社会は野蛮ではなく、当時の人はすべてが頭の中に入っていたので記録する必要がなかったということでしょうか。

ふだん機械に頼るのはいいけれど、万が一機械を使えなくなっても、生きていく術を知っていることが大切だと感じます。

私は石川さんのような冒険はできませんが、日常の生活の中でも「これはあたりまえではないかもしれない」と考える機会を持つようにしたいと思います。

 

 

『SFカーニバル』

フレドリック・ブラウン編 小西宏訳

創元SF文庫で、1964年初版。

古書市で購入。買ったものは1999年に復刊フェアで再版したもの。47版ですから、かなり売れた本なのでしょう。

値段は古書でありながら、1000円。ちょっと高いかな、と思いましたが、調べてみるとまともな状態の古書は1800円を超えているようなので、購入しました。

アマゾンのレビューも、高評価が多かったです。

ユーモアSFのアンソロジーで、短編10篇が収められています。

『ジョーという名のロジック』『ロボット編集者』あたりが面白かったかな。

いずれも、インターネットやAIが普及した現代に通じる、ブラックジョークな世界でした。人間が主導権を握っているつもりが、実際はコンピューターやロボットに踊らされている。どちらもユーモラスで、深刻な展開にはなりませんが、これが一歩狂い始めたらどうなるか、と考えると、怖いです。いま、私たちもいろいろ気をつけたほうがいいことがあるのでは、と思いました。

各作品の扉に、司修さんのとてもすてきなイラストがあって、魅力的な本になっています。

SF作品は、あまり読んでいませんが、いまのところ感じているのは、人間存在の根幹を揺さぶるようなタイプのものが少ないということ。架空の世界をゼロから作り上げる、それも破綻があってはならないので、論理が力を持っているということでしょうか。ちょっと頭が疲れてしまうこともあるんです。

でも興味があるので、古書市で面白そうなものがあると、つい買ってしまうんですけど。

そういえば、ホーガンの『星を継ぐもの』は、素晴らしかったです。池央耿さんの名訳も記憶に残っています。